只今絶賛公開中の『ジョン・カーター』。もうご覧になった方も多いと思いますが、感想はいかがでしょうか? スクリーンの中に八本足の馬に乗った緑色人が現れた時には、子供の頃から読んできた小説のイメージを目の当たりにして、私には感慨深いものもありました。
さて、『ジョン・カーター』の原作であるエドガー・ライス・バローズの小説「火星のプリンセス」は、発表されたのがちょうど100年前である1912年。それ以来、長い人気を保ち続けている、言ってみればSFの古典のような作品ですが、この100年間に様々な映画化への動きがありました。
1950年代には、ストップモーション・アニメの巨匠、レイ・ハリーハウゼンも映画化に意欲を燃やしましたし、80年代には当時『ランボー』シリーズをヒットさせて、映画界でブイブイ言わしていたマリオ・カサールとアンドリュー・ヴァイナのカロルコ・コンビが映画化の企画を進めていた時期もあります。
結局、皆頓挫してしまうのですが、一番の原因は原作に描かれた火星の世界を映像化する技術がまだ十分では無かった事でした。
確かに、今回の映画化はCGIなどのデジタル技術無くしては困難だったでしょう。原作の持つイマジネーションに、映画の技術が追いつくまでに実に100年を要した、と言えそうです。
しかし、原作が発表されてから、僅か20年ほどしか経たない1930年代に、「ジョン・カーター」を映像化しようというプロジェクトがありました。それは実写映画では無く、長編アニメ映画として企画されたのです。
このプロジェクトの仕掛け人の名は、ロバート(ボブ)・クランペット。日本では『バックス・バニー』など短編ギャグアニメのクリエイターとして知られる、アメリカ・アニメーションの巨匠の一人です。
1913年生まれのクランペットは、絵を描くのが大好きで、バローズの小説(「ターザン」や「火星のプリンセス」に始まる"火星シリーズ"など)を愛読する少年でした。その趣味が高じて、高校を卒業するとすぐに、大手映画会社のワーナー・ブラザーズ向けに短編アニメを作っていたシュレジンガー・プロに入ります。
当時、ウォルト・ディズニーが『ミッキー・マウス』の短編アニメを大ヒットさせて、ハリウッドにはアニメブームが起きていました。メジャースタジオも次々とアニメの配給を積極的に初めていた時期でもあり、若干十代のクランペットも、いいタイミングでチャンスを掴む事が出来たのです。
アニメ業界に入り、ワーナー向けの短編アニメシリーズである『ルーニー・チューン』でアニメーターやストーリー制作者として腕を磨いていたクランペットは短編には飽き足らず、「長編アニメ映画を監督してみたい」という希望を持つようになりました。
しかし、当時のアニメは長編の実写映画の合間に上映される、言ってみれば場繋ぎのプログラムだと思われており、長編アニメを作ろうなどという機運はまだハリウッドには無かったのです。
未だ二十歳にもならない若いクランペットはその企画として、愛読書であるバローズの「火星シリーズ」のアニメ化を構想。
1931年には作者のバローズにも勇躍打診してみると、これが好感触でした。当時「ターザン」がメジャースタジオのMGMで映画化されて大ヒットしており、バローズは自身の小説の映像化には積極的だったのです。
その上、「火星シリーズ」の実写化は当時の技術ではとても覚束ないと考えていたので、クランペットのアニメ化の話は正に渡りに船というところ。
幸運な事に同世代だったバローズの息子、ジョン・コールマン・"ジャック"・バローズ(後にイラストレーター、漫画家になりました)がアニメ化の企画に興味を持ち、プロジェクトに参加してくれることになりました。こうして、バローズ家の後ろ盾も得たクランペットは、短編アニメ制作の合間をぬって、「火星のジョン・カーター」のアニメ化プロジェクトに動き出します。
それまでのアニメで主流だった、デフォルメされたカートゥーン調のキャラクターとは違う、リアルなアニメキャラを作るためにアメリカ・アニメーションのパイオニアの一人であるマックス・フライシャー(『ベティ・ブープ』や『スーパーマン』で知られる)が開発したロトスコープという技術も導入しました。
これはカメラで撮影した物体の動きをアニメにトレースするシステムで、言ってみればアナログ式のモーション・キャプチャーのようなものです。クランペットは当時の人気マンガ「フラッシュ・ゴードン」を参考にキャラクターのデザインを作り、ジャック・バローズと共にロサンゼルスのグリフィス・パークでキャラの動きに使うために役者の演技を撮影しました。
ジャックも、キャラデザ用に緑色人タルス・タルカスや八本足の馬、カーターが使う巨大なサーベルなどのモデルを作り、フィアンセのジェーンと一緒にセル画の彩色も行います。クランペットのアニメスタジオの同僚でもある、チャック・ジョーンズ(『ロードランナー』で知られる、アメリカを代表するアニメ作家)も動画を描き、このプロジェクトに参加していました。
そうした地道な試行錯誤の末に、1935年テストフィルムが完成します。
ジョン・カーターや緑色人が登場する数分のアニメですが、コミカルなカートゥーン(漫画映画)しか無かった、それまでのアメリカのアニメとは全く異なるリアルでシリアスな作品に仕上がりました。
早速、バローズの小説の映画化権を持っていたMGMへのプレゼンを行い、好評を得ます。しかしMGMが系列の劇場で、このフィルムを試験的に上映してみると、観客からは冷ややかな反応しか返ってきませんでした。
こうした観客の反応を重視し、「SFアニメなどダメだ」と判断したMGMは「ジョン・カーター」のプロジェクトを中止し、替りにクランペット達に「ターザン」のアニメ化を企画させます。
しかし、MGMはシリアスなSFアニメが観客に拒否されたと考え、「ターザン」をカートゥーン調のコメディとして作るように求めました、何年も心血を注いできた「ジョン・カーター」の頓挫に失望していたクランペットは、結局この「ターザン」の企画からも手を引き、古巣のワーナーで短編アニメの制作に精魂を傾ける事となりました。
クランペットの夢がこうして潰えた1936年、皮肉な事にSFコミック「フラッシュ・ゴードン」が実写映画化されて大ヒットします。
更にリスクが高過ぎると誰もが敬遠していた長編アニメ映画も、ウォルト・ディズニーによって『白雪姫』として完成。後にクランペットは、「MGMの判断は間違っていた」と無念の思いを語っています。
もし、この長編アニメ映画「ジョン・カーター」が作られていたら、アニメや映画の歴史は変わっていたかもしれません。しかし観客が果たして、このアニメを受け入れたかどうか、それは永遠の謎でしょう。
ところで、このアニメ版「ジョン・カーター」のテストフィルムは、企画の中止後長らく行方不明のままでした。
1970年代にバローズの孫、ダントン・バローズ(ジャックの息子)によって発見され、ようやく陽の目を見る事となります。
結局実現しなかったとは言え、この幻の「ジョン・カーター」のアニメを観て、色々と妄想が膨らんでしまうのは、又私達ジャンル映画好きの性というものでしょうか。
↑これから観ようという人は出来るだけデカイ劇場のデカイスクリーンで観てね!
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