しつこいようですが、3D映画独り推進派の拝でございます。
さて、よりによって3月1日(木)。気がつけば「ヒューゴの不思議な発明」公開日と言うことで早速劇場へ向かいました。
この映画はパリの駅に設置された、大時計の裏部屋に住むヒューゴなる少年が今は亡き父から託された機械仕掛けの人形を必死こいて修理するうちに、一人の偉大なる映画人を復活させてしまうという”ミラクル”なファンタジー映画。どう考えてもクリスマスかお正月公開したほうがよさげな映画であります。
まずは、まだ観てない人の為にお節介。
「アバター」同様、出来るだけ3Dで観てください。まさに3D向けな映像だったり設定だったり、何より「アバター」以降雨後のタケノコのように出てきた3D映画の中でも、キチンと3Dで撮る意味を持った映画なのです。
オープニング。
曇天のパリの空から舞い落ちる雪を払うかのように滑空するカメラが駅のホームから構内に突進し、時計台の4時の位置から外を覗くヒューゴの姿を捉える。そこからヒューゴの日常と老人とのやり取りを経て再び、カメラが大空へ舞い上がるまで、タイトルが出るまでがやけに長いのです。
しかし、駅の構内に立ち込める煙、蒸気、そして差し込む光、光に映し出される埃や塵まで写すことで「そこに立っている」錯覚を覚えます。
ヒューゴを追いかける駅の警官のギミック的な顔立ち、アップで飛び出してきそうなドーベルマンの顔。
華やかで人の活気に満ちた駅とは正反対の、どこかじめっとして、暗い駅の裏側から時計台へと続く奥行きたっぷりなダークサイド。
そして、時計から見えるパリの夜景。
しかし、一見リアルに見えるこの景色は、全て本物くさい嘘。駅からしてが、当時のパリにあったいくつかの駅のイメージを重ね合わせたもので、何かを忠実に再現したわけではないのです。
そう。映画は楽しい嘘。
正直な話、お話自体は起伏がないというか、刺激が足りませんし、とってつけたような悪夢のシーンが出てきたり、そもそも機械仕掛けの人形の必然性があるのかないのかなど「撮ってみたらやっぱり大変でそれどころじゃなかった」みたいな感じも結構あるんですが、この映画実は主役がベン・キングスレー扮する老人の正体が分かると「映画はマジック」という感じで素直に3Dを楽しむのが一番なことに気づくのです。
映画の中にリュミエール兄弟が初めて公開した映像の1本として「ラ・シオタ駅への列車の到着」が出てきます。今から100年以上も前の作品で、駅に機関車が入ってくるというそれだけの映像。それでも、公開された当時、それを観たお客さんは列車が突っ込んでくると勘違いして逃げ出したという逸話もしくは都市伝説を生みだしました。
後付けの話になりますが、このフィルムには今の3Dに相通ずる三次元化への挑戦ともいえる実験的な撮影手法が感じられます。
このリュミエールの映像に感動し、奇術師だったジョルジュ・メリエスは”映像”ではなく”映画”という途方もない可能性を発見することになるのです。
映画の中で現場を訪れた少年にメリエスが言います。
「夢はどこから湧いてくるんだろう?ここからさ!」
自分の人生のすべてをかけた、メリエスの映画スタジオ。何もかもが実験で、「想定の範囲内」なんてあり得ない世界。
マジックという”嘘”で人を感動させてきた男が、今度は映画という最高の”嘘”のギミックを手に入れた瞬間。
この映画で語られる世界は全て嘘です。でもその虚構の世界をさも実在するかのように見せるマジックカードが3Dという新しい撮影技法。
部屋の中を生きているかのように舞う、膨大な絵コンテ、生きているかのような煙であったり、雪であったり…そして誇張気味に動く人間たち。
これはメリエスが映画というおもちゃを手に入れたように、3Dという新しいオモチャを手に入れたスコセッシのお話でもあります。
大したお話ではないかもしれませんが、ストーリーや技術面でもどこか閉塞的で、夢や楽しさを失いつつある「映画」に対するスコセッシならではのエール。
あの暗い空間で正面のスクリーンを見つめるときに得られる「映画館が好き」な人が得られるわけのわからない高揚感。そんな原点みたいなものを思い出させてくれる映画。
観方によっては、3Dへの偏見すら払拭できるかもしれないそんな映画。
嘘は嘘でも楽しい嘘なら、それは騙されたものが幸せなのです。
PS.今回はやけに真面目だったことに今、気づきました。すいません。クロエとかの話し全然出てこなかったね。
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