特撮ファンには「死神博士」。映画ファンには岡本喜八作品の常連。
ただいるだけでその場の雰囲気を一変させてしまう、時に容貌魁偉、時にはファンキーな俳優・天本英世はまさに「怪優」にして「名優」といえるでしょう。
没後21年。ここでは天本氏が終の棲家とされた故郷・福岡県北九州市若松区で、その晩年をよく知る真花宏行氏に天本英世の想い出を伺ってみました。
構成・執筆/武井崇(映画ライター)
●最初の出会い
―まず、天本さんとの出会いからお聞きしたいのですが
真花(以下名称略)「私はもとは、オガワゴムっていう、フランケンシュタインとかのマスクとか作っている会社で、原型を作る仕事をしていました。
当時、雑誌『宇宙船』の裏表紙に広告が出ていたから、ご記憶のかたもいらっしゃるかもしれません。
その後、若狭新一さんのスタジオMONSTERSに所属して、それから独立しました。
ビデオオリジナル映画が何本も作られていていた頃で、私も独立してすぐに『永井豪のこわいゾーン2 戦鬼』(90)というビデオ作品に特殊メイクで参加しました。
オムニバスで、その中の一本「吸血鬼狩り」という作品の現場が、天本さんとの出会いです。
監督が、ブリザードが吹くような場所で撮影したいという事で、ロケは八甲田山の山小屋だったんですよ。
冬で、それは寒い所で大変でした。
―第一印象は…いかがでしたか?
怖かったです。
もちろん、私もファンでしたから、現場で見かけて「天本さんだ」って思っていたら、いきなりプロデューサーさんか、誰かに怒っているんです。
いやあ、怖い人だなって思っちゃって(笑)
●故郷の話で意気投合
撮影は待ち時間が長いじゃないですか。
私は特殊メイクの担当ですが、カメラとか照明がセッティングして、演技テストがあって、出番はその後なんです。それで、割と俳優さんと一緒にいる事が多いんです。
たき火に当たっていたら、天本さんと私二人きりになったんです。
私は全然話しかけなかったんですけれども、いきなり天本さんが、語りかけてきたんです。
「僕は九州の出身ですから、寒がりなんですよ」
だから、僕も
「はい。私も若松の出身です」って、故郷の事を言ったら「ええ!」って(笑)
それから、同郷だっていう事でもう思い切って
「料亭金鍋というのがございまして、そこの倅です」
そうしたら天本さんが
「その金鍋、ボク知っているよ。うちのオヤジが足しげく通った料亭だ」って。
天本さんのお父さんは、住友石炭の支店長だった方なんです。
当時、若松の町で、住友石炭の支店長というと、ものすごいエリートでしたから。
まだ石炭産業が花形の頃の話です。
だから、うちの店みたいな料亭でどんちゃん騒ぎするくらいの羽振りの良い方だったんです。
つまり、天本さん自身も、凄いお坊ちゃんというわけです。
その後宿で一緒に一泊したんですけれども、その時も天本さんとずっと話していました。
「若松のなんとかは元気か?」と「商店街のあのお店は?」とか、そういう話ばかり(笑)
それを見て、他のスタッフとかが、なんであの若造は仲良くやってるんだって首かしげていましたね(笑)
―その後もお付き合いは続かれたのですか?
ええ。それで、意気投合して、映画のロケが終わったあとも付き合いが続きました。
天本さんは、独立してすぐだった私に、仕事とかをお世話してくださいました。
何かあったら、美術で私の事を呼んでくれたり、推薦してくださったりして。本当に助かりました。
私が20代後半、27~28才くらいの時の話です。
仕事以外でも、銀座の中華料理店で御馳走していただいたりとか。
当時、私はペーペーでしたから(笑)そんなにいいものなんか食べられなかった。
本当に良くしてもらいました。ただの同郷ってだけなのにね。
そうこうしているうちに、私のオヤジが急に病気で倒れて、若松に帰る事になりました。
それで「無念ですが、この仕事を止めて若松に帰る事になった」と天本さんにあいさつしたんです。
そうしたら、天本さんは「その日その日を大切に生きる事」「故郷を大切にする事」と私に言うんです。
これは、天本さん自体が大切にしていた言葉でもあったんでしょうね。
●火野葦平と天本英世
ちょっと話はそれますが、天本さんのご実家の向かいに火野葦平(あしへい)さんの家があったんです。
『花と竜』とか『麦と兵隊』とかを書いた有名な小説家です。
火野さんは芥川賞作家で、一躍時の人だったんです。
その人を天本さんは子供の頃から観ていて、大分影響を受けていますし、交流もありました。
火野さんは、故郷を大切になさった方でした。
皆さん作家になったら、普通は東京のほうへ行ってしまうんですが、火野さんは若松で作家活動を続けていました。
天本さんの言葉とか行動は、そういう火野さんの影響があると思います。
そういえば、天本さんが俳優になるというので、火野葦平さんに挨拶に行った時
「どこへ行っても故郷の事を忘れないように、大切にしなさい」という言葉をもらったそうです。
だから、その言葉を、若松に帰る私にそのまま伝えてくださったんです。
よく天本さんのスペイン好きというエピソードを聞きますが、それは、私が察するところ、若松の人間とスペイン人を重ねたんじゃないかと思っています。
若松というのは、石炭荷役の荒くれ者が集まった労働者の町です。
火野葦平さんの『花と竜』なんか観るとわかりますが、その日その日をエネルギッシュに生きて行く。
そういう所が、火野葦平さんも好きで、天本さんも、それをスペイン人に重ね合わせたんじゃないでしょうか。
●天本さんとスペイン
―天本さんのスペイン好きで何か覚えていることなどありますか?
天本さんがスペインを知るきっかけになったのは、民族音楽が好きだったからなんです。
世界の民族音楽を収集するうちに、フラメンコに出会った。
フラメンコを聞いているうちに、これは素晴らしい音楽だ、是非スペインに行ってみたい、っていう事で行ったらスペインの人たちの人柄にはまってしまったんです。
さきほどの、天本さんが教訓にしていた「故郷を大切にする」という思想がスペインにはあったそうです。
日本人みたいに、現実的に考えないで、一日を情熱的に生きる、明日があるとは思わない。
そういうエネルギッシュな生き方に感動していました。
「スペイン人はみんな生き生きしている。日本人なんて、電車に乗るとみんな目が死んでいる」と言ってましたね。
もうひとつは、スペインには儚い(はかない)…というか、そういうような思想があるとも言っていました。
「日本人にも昔はそういうのがあったけれども、今では、ボケてまで長生きしようとしている。人生は儚いものだ」というんですよね。
「だから精一杯生きなければならない」って。
最初はフラメンコに憧れてスペインに行ったけれども、最終的にはスペイン人というものに惹かれて、足しげくスペインに通ったのだと思います。
●「ホームレス伝説」の真相
―天本さんといえばホームレス伝説もよく聞くお話ですが、あれは本当の話だったのでしょうか?
ちゃんと自宅はありましたよ。
先ほど話した通り、家はお金持ちですから、天本さんが俳優になるって言った時、世田谷かどこかに家を買ってもらったらしいんです。
中々良い家で、小ぶりですけれども二階建てで地下室までありました。
昔の雑誌で、自宅紹介みたいなものに取り上げられていたのを覚えています。70くらいまで、そこに住んでいました。
ところが、古くなってて雨漏りがひどくて、柱とかも腐っちゃって。
天本さんもああいう性格ですから、きちっとメンテナンスとかはやっていないんですね。
それで、大変なことになっちゃったらしいです。何でも、ドアも開かなくなったって言っていました。
ああ、これはもう住めないということになって、しょうがないから、最低限必要な荷物だけ持って、公園に寝泊まりしていたんです。
だから住む家はちゃんとあったんだけど、本当にホームレスになってしまったんですね。
で、そんな生活を続けているうちに、とあるクリーニング屋の建物の、ちょっとした縁側みたいな所で一晩過ごしたんだそうです。
朝クリーニング屋さんが来て、天本さんをみつけてびっくりしたんですけれども、訳を聞いて
「だったらうちの二階はどうですか? 私たちは夜、店を閉めたらいなくなるから。二階に人がいてくれたほうが、用心がいい」って。
そこで、クリーニング屋の二階をただで間借りしていたんです。
私は会った事はないですけれども、すごく良い方だったそうですよ。
で、そんな生活を続けているうちに、天本さんの知り合いが、それじゃあ良くないから、と保証人になってくれて、アパートに住むようになったんですね。
―どのくらいホームレスをされてたんでしょうか?
ホームレスの期間って、どれくらいあったのかな…クリーニング屋も含めて、そうですね、三年くらいあったと思いますね。
いませんよね、ホームレスの俳優って。それも、第一線の俳優がですよ。
でも、天本さん、貯金とかは沢山あるんです。
それで、ホテルに泊ったらって言われても「いやあ、そんなのこだわらないよ」って言って公園で寝ちゃう(笑)
それで、朝、公園で起きると近くのファミレスに行って、モーニング食べて昼も食べて、仕事ないときは一日中そこにいた。
天本さん、携帯とか電話持っていませんから、そのファミレスが連絡先になっていて仕事の電話がかかってくるそうなんです。
そのうち、宅急便で台本がそこに届いて(笑)ファミレスの店員さんが、取り次いでくれる。そんな日々だったようです。
●死神、故郷へ帰る
―若松に戻られたのは御病気が原因だったのでしょうか?
住む場所も安定したある日、友達の出版記念のパーティーの会場で、天本さん、脳梗塞で倒れたんです。
最初は東京のほうの病院に入院したのですが、こちら(若松)の方にお姉さんがいらっしゃるので、若松へ転院する事になりました。
最初は右半身が不随という状態でしたが、徐々に回復して歩けるようになってきました。
最初は言葉もままならなかったんですけれども、それもきちっと喋れるようになって。
その頃、NHK福岡が製作した「うきは~少年たちの夏~」(02)に出演しています。
入院している最中でしたが、許可をとっての出演です。
病気の前からの約束だったので、天本さんは出演されました。これが遺作になりました。
やはり、昔とは違います。観られたら分かりますが、痩せていてちょっと弱々しい。
確か、村の老人の役でした。
それに、回復はしたのですが、味覚が無くなってしまったんです。
何を食べても味がわからない。
天本さんは、お酒を飲まない方ですから、食べるのが楽しみだったんです。
それで、結構落ち込んでしまって。
どんどん痩せていって、生きる活力が萎えていって。
その後、腸閉塞とか、色々おこしてしまい、もう一回脳梗塞を起こして、そこから寝たきりになりました。
若松に転院されてからお亡くなりになるまで、一年くらいですか…。
どんどん衰弱していって、食べ物も喉を通らなくって、感染症で肺炎みたいなものを起こしてしまって。
もう、食べる事を拒絶するわけですから、栄養補給しても限界がありました。
●「スペインで死にたい」
お亡くなりになったのは、2003年3月23日、若松市立病院です。
その時は、すごい高熱が出ていて、何かスペイン語でうわ言を言っていたそうです。
私は立ち会えなかったのですが、天本さんの甥っ子さんのお嫁さんがいらっしゃったそうです。
遺言は「もしも私が死ぬのなら、出来ればスペインで死にたい」というものです。
お亡くなり間際に言ったというわけではなく、前々から言っていました。
もしそれが叶わなければ「スペインのグアダルキビール川の源流に私の灰を撒いてくれ」と言っていた事があるんです。
グアダルキビール川というのは、スペイン一の大河で、歴史的にも有名で、そこで灰をまくと、スペインの土地に自分の魂がしみわたると。そういう考え方ですね。
『わが心の旅』というNHKのドキュメンタリー番組で、天本さんが元気な頃、その遺言に興味を持ったプロデューサーが、川の源流までの天本さんの旅を番組にしているんです(1997年7月放送「わが心の旅 グァダルキビール河に私の灰を」)
スペインの山奥に、グァダルキビール川の最初の一滴という石碑が建っているんですが、そこまで行きました。
その番組を見ると、天本さんの考え方が大体わかります。素晴らしい番組でしたね。
●遺骨はスペインに
―遺言を叶えるためにスペインへ行かれた、ということですか?
そうです。2005年の10月に遺骨を撒きに行きました。
たった一つの遺言なんですけれども、それがもう大変な事で(笑)
川の源流の事を旅行会社とかに聞いてみたら、そこはスペイン人も行かないような所だと(笑)
とりあえず現地に行ってもあてがなく、源流の町まで行って、そこでバスの運転手を雇ったんです。
でも、場所を言ったら「いやぁ、そこまで行けないよ」みたいな事言い出して。完全に手探りです。
なんとかバスで行ける所まで行ってもらって、たどりついてなんとか灰を撒きました。
本当に、エライ遺言ですよ(笑)簡単なようで難しい。
一緒に行ったのは、若松の友達と、天本さんの親戚の方。それから、現地のスペイン人の友達の方も一緒に行きました。
天本さんのスペインの友達に会ってみて、天本さんがスペインが好きだっていう理由がわかりました。
本当にいい街で、人懐っこくっていい人たちでした。
天本さんは、彼らに「おまえは日本人じゃない、スペイン人だ」って言われていたらしいです。
●故郷を愛し、愛された人
―若松区での天本さんの活動はどういったものだったのでしょうか?
私が映像の仕事を辞めて、東京から帰って来た時、若松では、私の店(料亭)みたいな商売があまり良くなかったんです。
なんで良くないかというと、若松の町自体が衰退しているからです。今でも進行形で悪くなっている。
この街に活気を戻そう、街おこしをしようと、天本さんに東京からわざわざ来ていただいて、この店で講演とかをしてもらいました。
スペインの詩人、ロルカの詩を詠っていただいたりしました。
天本さんは、この町のためになるならと快く引き受けてくださいました。
あと、映画のロケ隊みたいなものを連れてきてくれたりもしました。
今は、フィルムコミッションとかあるでしょう。
あんな感じで、ここでロケしたらどうかとか、みたいに自分の出演する映画の撮影隊を引っ張ってきたりして。
あとは、テレビの番組とかに、うちのお店を紹介してくださったりとか。
天本さんは、年に一、二回は若松に戻ってきていました。
そして、商店街をうろついたり、市場なんかに行って、色んな人に声をかけたりしていましたね。
まあ、知り合いもいるし、そうじゃない人にも気さくに声をかけていました。
何か、町の風物詩みたいなもので…「天本さんが来た!」って(笑)
いつだったか会った時に、いっぱい荷物抱えているんですよ。
「どうしたんですか?」って聞いたら、「渡りカニもらったから、料理してくれないか」って。
市場でもらったんでしょうね。ずいぶん立派なものでした。
●追悼公演にはあの名優たちも
―天本さんが亡くなられた後はどんな活動をされてこられたのですか?
2004年2月に、若松市民会館で「天本英世追悼公演」を開催しました。
天本さんゆかりの俳優、黒部進さんとか佐藤允さんとかにご来場いただきました。
あと飯星景子さんは、お父さんの飯干晃一さんと天本さんとが同級生で仲が良かったということで来ていただきました。
『仁義なき戦い』の原作者ですね。父親同士が旧制七高の同窓生だったんです。
それから『仮面ライダー』の佐々木剛さんにも来ていただいています。
ほぼ、ノーギャラみたいな形で来ていただいて。
佐藤允さんは、岡本喜八映画とかで天本さんと一緒だったんです。
天本さん飲めないんですけれども、酒豪の佐藤允さんが飲むのに付き合ってくれていたんだそうです。
あと、撮影の時のエピソードを紹介していただきましたね。
天本さんは、脚本を人の分まで一冊暗記できるそうです。
それで、三船敏郎さんが「天本くん、次、何だった?」って聞くんですって。
天本さんと三船さんは仲が良くて、三船さんも天本さんの影響を受けて、フラメンコを踊っていたそうです。
●「私が死神博士だ!」
佐々木剛さんは「もちろん一緒に話したことはありますが、なかなか本人と撮影所で会う事はなかった」とおっしゃっていました。
番組では仮面ライダー対死神博士になるんですけれども、変身前の佐々木さんと、死神博士が一緒になるシーンは、あまりなかったそうです。
ただ、イベントに仮面ライダー連れて来る訳にはいかないので…(笑)
佐々木さんも「宿敵ですから」って言って来てくださいました。
死神博士といえば、こんな事がありました。
ある時、一緒に道を歩いていたら、若者が「あ、死神博士ですよね」とか声をかけてきたことがあってね。
そうしたら「死神博士なんか自分の中には無いんだ。忘れたんだ」とか言って怒ってるんですよ。
その後、一緒に料理屋に行ったら、襖を隔てた隣の部屋で子供が騒いでいたんです。
「うるさいですね」ってポロっと言ったら、天本さんがスクっと立ちあがって、襖をいきなりバン!と開けて「ハハハハ!私が死神博士だ!」って(笑)
もう子供とか親が、ビビっちゃって。
天本さん、死神博士の事、全然忘れてないじゃない…って(笑)
まあ、ワンパターンでそればっかり言われるから忘れたなんて言ってたんじゃないでしょうか。
本当は(役を)気に入っていたと思いますよ。
死神博士を演じた後から、普段から黒いマントを着るようになったみたいですしね。
本人は意識しているとかは一言も言いませんが、多分、そんなに嫌いではなかったんじゃないでしょうか。
死神博士という役は、割と天本さんの地の性格が良く出ています。
完璧主義者で、それで失敗したらキレまくる…(笑)
地で行っているんじゃないかって思います。
●「天本英世記念館」計画
その後も、ほぼ毎年のように「天本英世記念若松映画祭」とかを開催して、幸い、ご好評を頂いています。
天本さんは、スペインの陶器とか、そういうものをコレクションされていたんです。
そういったものを展示したりもしました。
膨大なコレクションがあるのですが、天本さんが亡くなったあと、それは全部自宅にあるっていうので、親戚の方々と一緒に天本さんの自宅に取りに行ったんです。
さきほどお話した、お父さんに買ってもらった二階建ての小さな家に。
ところがね、その場所に行ってみたら、林があって草ぼうぼうで、家が無いんです。
何か、こんもりしているなっていうくらいで。
よく見たら、二階が腐って落ちて、全部地下室のあった所に入っちゃったんです。
つまり倒壊です。
あのコレクションは、そんな土の中から出て来たんです。
重機とかも使いましたし、発掘作業みたいなことして掘り出しました(笑)
陶器だったからよかったです。
あれが絵とかだったら全部ダメになっちゃいました。
その美術と生涯集めたコレクションを中心として記念館を作って、
映画にまつわること、演劇にまつわる事、スペインにまつわる事、それに天本さんゆかりの映画、天本英世の俳優としての足跡、
そういったものを残していきたいなと思っています。
天本さんは、この若松の町が好きな人でしたから、この町のためにもなるかなと。
きっと喜んでくれると思います。
昔と違って、個人で作ると埋もれてしまうので、行政と一緒にやりたいと思っています。
でも、行政も予算が厳しいですからね、今は…。
三十年くらい前ならば、ネタさえあればすぐに作れる時代があったのですけれども、今は厳しいです。
そういう事もあり、あまり前には進んでいません。
あと十年くらいのうちにはなんとか実現したいです。
●「死神博士よ永遠に」
―最後に、天本英世さんは真花さんからみられてどんな人物でしたか?もしくは天本さんに対する想いみたいなものなどあればお聞かせください。
やっぱり、生きざまが凄いです。
誰にも左右されずに、自分の生きざまを貫く。指図はされない…まあ、人に指図はしませんけれども。
私のような小さい人間は、言いたい事があっても言えないじゃないですか。
でも、天本さんは、そういう事もズバズバ言います。
仕事でも監督さんに気に入らない事があったら言ってしまうし。
それがために、仕事が没になってしまった事もありました。
でも東大を出てるから頭は良くて、何でも知っているし、言っていることは面白い。
やっぱり、あれだけの無二の俳優、個性的な俳優というんですか、あの方を超える人はいないだろうと思います。
こういう俳優がいたっていう事を、みなさんに知ってもらいたい。
映画とかはいいもので、ずっと残ります。
それから、天本さんが関わった『仮面ライダー』なんかも続いています。
ですから「死神博士よ永遠に」と、そういう感じで。
実は、今年、三村順一監督が火野葦平原作の『花と竜』を若松ロケで撮影したいということで、そのお手伝いをする事になっていてまだイベントのほうは計画していません。
でも、また来年以降も続けて行きたいです。
天本さんの生きざまっていうんでしょうか、面白いものを後世に残してゆきたい。
故郷・若松を愛した人ですしね。
―ありがとうございました。
真花宏行(まはな ひろゆき)
1962年北九州市若松区生まれ。
美術大学を卒業後、上京し、デザイナーとして玩具メーカーに就職。
その後テーマパークの設計会社を経て、日本映画における特殊美術の第一人者・若狭真一氏に師事。
「孔雀王」などの特撮映画や、TV、CM美術の仕事に多数携わる。
独立後、黒澤明監督の「八月のラプソディー」で特殊美術を担当。
永井豪監督の映画に参加した際、東北のロケ地で天本氏と知り合い、以後進行を深める。
その後、父の病気を機に帰郷し家業の料亭「金鍋」の店主となる。
天本氏の父は、住友石炭若松支店長時代、当料亭の常連客であった。
現在「天本英世記念会をつくる会」会長を務める。
▼天本英世記念会をつくる会 HP
*初出:電子書籍『特撮ゼロX VoL 00』(2016年12月)より加筆転載
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