本日は、『劇場版仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE』&『轟轟戦隊ボウケンジャー THE MOVIE』の封切り日!
朝イチで劇場に向かわれたブロガーさんもちらほらいらっしゃるみたいですねー(^^)
GOD SPEED LOVE(hysonic DEVILさま)
待ちに待ったこの日(^-^)(札幌テクノパーク専門学校さま)
なんかこっちにも期待と興奮が伝わってきます(^^)
読んでるとメチャ劇場に走りたくなりますが…
残念ながら私は都合で見に行けるのちょっと先になりそう(T T)
それまで皆さんの感想を楽しみに待ちたいと思います(但しネタバレはほどほどにお願い(^^))
で、本題。
その映画の宣伝もかねてこんな記事が公開されているのですが…
永遠のヒーロー・仮面ライダー、ついに宇宙へ!(サンケイスポーツ)
映画の紹介を通して、改めて「仮面ライダー」の魅力は何か?というのを考えるスポーツ紙の記事です。
この中の宣伝プロデューサーさんの言葉にちょっと思うことが。
Pさん曰く、ライダーの魅力とは、
「設定や形は変わっても、改造人間として生きる哀しさを背負いながら正義に目覚め、運命に立ち向かう孤高のヒーローを描いた初代『仮面ライダー』が原点。石ノ森章太郎氏の、『正義が必ず悪に勝つ』という信念は不変」と話す。
と語られているのですが…
これ平成ライダーではどうだろう?とちょっと思ってしまったわけです。
”改造人間”という具体的な設定は作品ごとにかなり揺らいでいますが
「哀しさを背負いながら、正義に目覚め、運命に立ち向かう孤高のヒーロー」
という点は確かに受け継がれているように思います。
その中でも、特に原点に近いと思うのは、私的には、
”仮面ライダークウガ”と”仮面ライダー555(ファイズ)”。
この2つですね。
あの五代雄介の明るさに、全然”孤高”じゃないジャン!と思われる方も多いと思いますが…
あの笑顔の裏に隠された”苦悩””哀しみ”というものを感じとれると、更に五代雄介という人物が魅力的に見えてきます。
最終回なんかは一番わかりやすいですよね。
雪原の中での、涙を流しながらの殴りあい。
”殴りたくない”
”戦いたくない”
”でも、わかりあえない…”
”戦うしかない”
そんな絶望感で、殴ったときの”苦い感じ”をかみしめながら、戦い続ける五代。
クウガはたった一人のライダーです。
その彼の気持ちを分かち合える仲間はいないのです…
たとえ一条さんといえども。
これが”孤高のヒーロー”でなくて、なんなのでしょう。
ファイズに変身する乾巧は、その性格設定からして”孤高のヒーロー”を意識しているように思いますね。
物語の中で、いったい何度彼は孤独をかみしめたことでしょう。
誤解され、裏切られ、嘲笑され、つまはじきにされる巧…
その姿を見るたびに胸がつまりそうになったものですが、それでも彼は決して弁明しないんですよね。
決して言い訳せず、ひたすら置かれた境遇に必死に立ち向かおうとするわけです。
そして、実は自分自身が”オルフェノク”だったという運命にさえも立ち向かおうとする巧…
その姿は、まさにPさんがおっしゃる”仮面ライダーの原点”の姿のように思います。
で、期せずして、この2作は、高寺&白倉両プロデューサーの代表作。
お二人が”仮面ライダーの原点”というものを強く意識して作った作品のような気がするんですよね。
この2作を比較すれば、その原点をお二人がどう解釈し、どう自分のものに昇華していったのか、その作風の違いがはっきりするかもしれません。
ちょっと考えてみると…
例えば敵の扱いにその違いがはっきり現れていますよね。
クウガの敵”グロンギ”。
それと人類(ライダー)とは、はっきりとした敵味方の関係にあります。
歩み寄る、わかりあえる余地はほとんどナシ。
この古典的ともいえる敵味方の区別。
味方(仲間)内はとことんアットホーム。
敵はとことん冷酷。
でその2者間のコミュニケーションはほとんど断絶。
という構図は、高寺さんの次作”響鬼”にも受け継がれていて、高寺さんの考え方がうかがえるように思います。
かたや555。
ここでの敵味方の構図は高寺作品とは全く逆です。
”敵味方があいまい”なんですよね。
”変身ベルトを装着すれば誰でもライダーになれる”
という基本設定からして、ライダーが敵味方自由に入れ替わるという構図になりますし。
一応の戦う相手”オルフェノク”にしても、人間と協調を図る穏健派が主人公各ということで、完全な敵ではなく、協調していける相手という印象が強いです。
あげくのはては、主人公=ライダー=敵(オルフェノク)という前代未聞の構図に…
こういう敵味方を区別せず、曖昧にするという、白倉さんの考え方も興味深いですよね。
なんかお二人の人間に対する考え方も透けて覗けそうな気がします。
ただの思いつき記事が、ずいぶん長くなっちゃったので、そろそろおしまいにしますが、この「クウガ」と「555」の比較って、まだまだ他にも面白い発見がいろいろできそうな気がします。
高寺×白倉の作風の違いがかなり明確に浮かびあがってきそうなので、誰か同人誌で書いてくれませんか?(^^)
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Comment [1]
No.1石田豊武さん
こんばんわ。興味深いエントリー有難うございます。
平成ライダーにおける「改造人間」については、「望むと望まないとに関わらず、人間を越えるものになってしまったヒト」というところでしょうか。かなりの拡大解釈ですが、こう考えるとクウガから響鬼まで当てはまりそうなそうでもないような・・・。カブトはまだ明かされていませんのでなんとも言えません。うわさでは劇場版でネタバレしているとか。
プロデューサーお二人の人間観については、これまた興味を惹かれます。
高寺ライダーは、現代において曖昧な「正義」の定義を、敵の存在をもって普遍化・正当化しているというところでしょうか。いわば戦いたくないけど戦わなきゃ人類が危ない、みたいな。
白倉ライダーは、正義が曖昧なら曖昧なままで物語を進めて、登場人物自身に判断させるる。なんで戦っているの?という部分から番組をスタートさせている感じですかね。
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